ここから本文です

第33回会議録 平成19年10月25日開催

作成・発信部署:企画部 秘書広報課秘書係

公開日:2008年11月27日 最終更新日:2012年7月4日

画像:写真:第33回市長と語り合う会の様子(拡大画像へのリンク)

第33回市長と語り合う会の様子

(画像クリックで拡大 13KB)

第33回市長と語り合う会 「留学や青年海外協力隊等、海外生活経験者の方と三鷹市を語る」

  • 日時 平成19年10月25日(木曜日)午後7時~9時
  • 場所 三鷹市役所 第3委員会室
  • 参加者 5人

清原市長

皆様、こんばんは。どうぞよろしくお願いします。
今日私が留学や青年海外協力隊等、海外生活経験者の方とお話をと思いましたのは、三鷹市内ではほんとうに多くの方が海外でのご経験をお持ちで、それが留学、お仕事であったり、あるいは青年海外協力隊での活動であったり、またシニアでJICAのシニアボランティア活動をしている方もいらっしゃいます。市長になって、ほんとうに毎年多くの方を海外青年協力隊でお見送りし、そしてまた元気に帰国されたご報告もいただけるようになりました。
また、中学生の海外派遣というのを再開いたしまして、今年も7つの中学校から2名ずつ、ニュージーランドのクライストチャーチ市に派遣をしています。
今日は三鷹市民でいらして、海外でのさまざまなご活躍をされている方からご体験を通しての気づき、あるいはこれからのあり方についての問題提起をいただければと思います。
本日は、国際交流も担当しております河村副市長と、これからの施策に生かしていきたいということで、企画経営室の井上係長も聞かせていただきます。
最初に、2分程度自己紹介として、特にどういう国でお暮らしになった経験があるのかということを最初にご紹介いただいて、それから少し共通のテーマでやりとりをさせていただければなと思います。では、Aさんからよろしくお願いします。

Aさん

初めまして、Aと申します。私は、1991年から93年まで、青年海外協力隊でネパールのカトマンズに行っておりました。そこでの経験を生かしまして、戻ってきてからはNGOで開発教育という、途上国の暮らし等を子どもたちに教える、そういったボランティアをやっております。そういった外部のNGOだけではなくて、地元にも還元したいという思いがありまして、MISHOPの会員にもなっておりまして、先日のフェスティバルの実行委員も務めております。それで、今日は地元の人材を生かしてほしいという思いを市長様にお伝えしたくて参加しました。よろしくお願いします。

清原市長

ありがとうございます。それではBさん、お願いします。

Bさん

Bと申します。学生のころにカナダには短期で英語の留学に行っていたんですけれども、2005年の4月から今年の4月までグアテマラに、協力隊で行かせていただきました。
学生のときに学んでいたのが家畜だったので、鶏や豚の飼育をしに、すごく田舎の、見渡す限り山と木しかないところに派遣されました。村の人たちとの交流によって、私はずっと東京だったんですが、人と人との触れ合いというのが減ってしまっているなというのをすごく気づかされて、やっぱり人と人とのつながりというのが根本なんだなというのを改めて感じて帰ってきました。

清原市長

ありがとうございます。それではCさん、お願いします。

Cさん

Cです。どうぞよろしくお願いします。私も青年海外協力隊で1999年から2001年まで東欧のルーマニアに行っておりました。ルーマニアはバルカン半島に位置する国で、多民族の国家なんですけれども、異文化理解教育というものと、やはり大変厳しい状況下で、道で暮らしている子たちがたくさんいたので、その子どもたちのお世話する活動をしていました。
帰国後、2002年から1年間、イギリスのウェールズにあるアベリストウイスという小さなまちに語学留学をしておりました。私自身が海外で暮らした中で、逆に日本で暮らす外国人の人はどうなんだろうとすごく考えることが多くて、今、その地域で暮らす外国人の方々、特に国際交流協会の働きについて研究をしています。
私は結婚してこちらに来たもので、三鷹市民になってまだ半年です。今日はいろんなことを聞きながら自分の思いを伝えたいと思って来ました。よろしくお願いします。

清原市長

ありがとうございます。Dさん、お願いします。

Dさん

初めまして、Dです。私も皆さんと同じように、2005年7月から協力隊としてトンガに行きました。トンガは太平洋の小さな島なんですけれども、3カ月前に帰国しました。現地では、職種が植林ということで、トンガを含め太平洋の島々は今、海面上昇で悩んでいますので、それをどうにか食いとめるためにマングローブを植林しようというプロジェクトを実施してきました。学生で、休学をして派遣されていたので、今帰ってきて大学で森林科学の勉強をしている状態です。
日本に帰ってきて最初に気づいたのが、道を歩いていると外人の方が、ふと見ると道に迷っていたり、ちょっと困っている様子があるんですけど、みんな無視して通っていっているのを、見捨てておけないというか、だからどうにか日本にいる外国人の方とも交流したりできたらなと思っています。まだ帰ってきて間もないので、考えとかは、まだまとまってないので、今日は皆さんのお話をお聞きしてという感じです。よろしくお願いします。

清原市長

ありがとうございます。Eさん、お願いします。

Eさん

Eと申します。よろしくお願いいたします。私は1987年にまず北京に1年間留学しておりまして、ちょうど天安門事件にぶつかりまして、日本に帰ってきました。それから会社に戻りまして、2年ほどたったところで、ちょっとお金と名誉と地位に目がくらみまして、今度は仕事で上海の外資企業に行ったのが、もう15年ぐらいたつんでしょうかね。そちらで仕事をしておりました。そこは1年半いたんですけれども、その後シンガポールにまた仕事でまいりまして、そちらで7年ほどホテル業につきまして、営業とマーケティングの仕事をしておりました。
結婚を機に日本に一度帰ってきたんですが、今度は主人がアメリカに留学することになりまして、私もちゃっかり留学をして、マスターコースで、公共経営学を学んでいました。そして今、三鷹市民になって3年です。
大分長く海外にいたこともあって、いろいろな生活の中でやっぱりいい思いをしたり、こういうシステムは取り入れたらいいなというものがたくさんありますので、何かお役に立てるような機会がないかと今探しているところです。よろしくお願いいたします。

清原市長

ありがとうございます。今日はぜひ、皆様が気づかれていないかもしれない海外での生活、あるいは活動を通してお感じのことなどについて、私も一生懸命引き出させていただければなと思っています。
ほんとうに皆さんは初対面でいらっしゃいますか。同じJICAの活動をされていてもですよね。

Aさん

年次が違いますからね。

清原市長

私、実は一番最近お会いしたのがDさんで、8月ぐらいでしたか、Bさんも帰国されてすぐご報告に来ていただいて、何か同じ活動をされている方でコミュニケーションの機会が、意外にないということがわかったんです。それも実は今日こういうテーマで集まっていただくということを企画した1つの要因でもあります。
さて、いろいろな経験をされているし、文化も違いますし、ほんとうに多様なのですけれども、その国とご縁があったいきさつについてもう少し伺いたいと思います。Eさんは学生時代に留学として行かれたきっかけはどういうことだったんですか。

Eさん

私は大学受験をまず失敗しまして、あまり自分の希望でない大学に行ったんですね。専攻の経営学は希望どおりではあったんですが、このままでは人生自分の思いどおりにならないということで、武器を身につけなければということで、その当時はまだ中国語を話される方も少なかったので、第二外語に選びまして、実は留学に行く前にも短期で中国に1カ月だとか3カ月だとか、休みのたびに留学に行くようなことをしていまして、それを武器にお金もうけをしようと単純に考えて。

清原市長

第二外国語に中国語を選ばれて、就職もじゃあ中国ですか。

Eさん

最初は、中国に留学しましたのは大学を卒業した年なんですけれども、その前に就職が決まっておりまして、一般の企業に就職して、会社が留学も行っていいよという、いい時代だったものですから。

清原市長

じゃあ働くことと留学されることとを、最初に意識を持って進められ、これからは中国ということで、留学を選ばれたということですね。

Eさん

はい。

清原市長

Dさんは、青年海外協力隊に行こうと思われたきっかけは何だったんですか。

Dさん

今、大学でも森林科学をやっているんですけど、父の仕事がマングローブの植林プロジェクトを世界各国で行うような仕事で、小さいときから一緒について行く機会も多くて、その影響を受けて、自分も広い視野で環境問題を解決するために何かやりたいと思いまして、たまたまトンガでマングローブの植林プロジェクトをやるという話があったので、参加することを決めました。

清原市長

大学何年生のときにそれは決断されたんですか。

Dさん

3年生のときです。

清原市長

じゃあ、今までトンガ以外にもいくつかの国は、短い期間でも行かれたことはあるんですか?

Dさん

大体は1週間とかなんですけれども、タイやカンボジア、モルジブとか、結構マングローブがいっぱいあるところで、モルジブはそれこそ海面上昇でどんどん土地が少なくなっていっているようなところで、実際に植林をしてどうにか食いとめようというプロジェクトを積極的に行っているところです。それは日本のボランティアがエコツアーという形で、実際に現地に行って植林をしたりそれにもついて行ったりしています。

清原市長

ちなみにトンガの言語は。

Dさん

トンガの公用語は英語なんですけれども、基本的に生活はトンガ語で。

清原市長

じゃあ、両方を使いながら2年間過ごしたのですか。

Dさん

そうですね。でも、私が派遣された場所が小さな村だったので、そこでは基本的にトンガ語でしか皆さんしゃべらないので、トンガ語でほとんど生活はしていました。

清原市長

Cさんはルーマニアに行かれたきっかけというのはどういうことですか。

Cさん

中学校1年生のときに青年海外協力隊の方が学校に来て体験談を話す授業があって、その話を聞いたことがあったというのが1つと、私は文学部で、俳句の勉強をしていたので、理系の方が協力隊に行くことが多いと思うんですけれども、たまたま文系でも行ける職種があるということがわかったのと、ちょうど体験談を聞いた時が、1989年でルーマニアで民主化の革命が起きたときだったんですね。それがすごく鮮明に残っていて、ルーマニアにとても行きたくなって、受験しました。

清原市長

じゃあ、いくつかのメニューの中からルーマニアに行く異文化教育のものをあえて選んで受けられたと。

Cさん

そうですね。やはり協力隊はすごくたくさん職種があって、看護士さんとか植林とか家畜とかもあると思うんですけれども、学校の先生ですとか青少年活動とかというのでも1つの職種に20個ぐらいの要請があるんですね。私が行ったときはまだ行くところを選べなかったんです。JICAのほうがどこに行くというのを決める時代だったんですけれども、面接の中で、どうしても自分はルーマニアに興味があって行きたいということをお伝えして、行かせていただけました。

清原市長

Dさんの場合もトンガを選んで。

Dさん

私の場合、専門というか勉強していたことがマングローブだったので。

清原市長

Bさんも青年海外協力隊という選択をされたきっかけというのはどういうことだったんですか。

Bさん

きっかけは、大学に入ったきっかけにさかのぼるんですけれども、もともと介助犬とか盲導犬、聴導犬の訓練士になりたいと思っていたんです。じゃあそれになるにはどうすればいいのかいろいろ調べたら、福祉大学に進むか、畜産というか動物関係の大学に進むかというところに行き当たって、全く理系と文系と分かれていたので、どっちがいいんだろうと思って訓練士さんに質問しところ、動物のことをわかっている人のほうが安心して任せられるという答えだったので、迷わず畜産のほうを選びました。
大学のときもずっと、介助犬の仕事につきたいと思っていたので、いろいろと探した結果、日本だとほとんどボランティアの状態で、お給料をもらって成り立っている仕事ではないというのを知ってどうしようかなと思ったときに、海外では独自にお給料制みたいな形で働ける窓口があった。それがアメリカだったんですよ。それもあって、自分は介助犬のために海外で働こうと思っていました。そのときの第二外国語がスペイン語を習っていて、そのときの先生が青年海外協力隊のOBの方で、それでスペイン語プラス、先生の活動内容とか現地の話とかをいろいろ聞かされて、私の場合は畜産があるので、それを生かさないのはもったいないねという話をされたんですよ。何か自分の学んだことが役に立てるようなことはないのかなと思ったとき、JICAというところを窓口にと思って、じゃあこれを機会に外国の畜産も学んでみたらいいんじゃないかなと思ったのがきっかけで行きました。

清原市長

そうすると、スペイン語と畜産の学びが両方生かされてグアテマラになったと。

Bさん

そうです。

清原市長

Aさんは、青年海外協力隊には、就職されてから行かれたんですか。

Aさん

いえ、違います。私も学生のときは大学で福祉を勉強していました。その後、高校の後輩から海外協力のことについて聞いて興味を持ったのと、もう1つ、たまたまテレビで「風の学校」というNGOが報道されていて、それが地元の実家の千葉にあったので、そこの中田正一先生を訪ねて、自分もぜひ行きたいと思いまして、先ほどCさんもおっしゃったとおりで、募集要項を見たら理工系大学卒業のことと書いていますので、それで卒業する時点で、別の大学の機械工学科の3年編入試験を受けて入り直しまして、流体力学、風力発電を学びまして、ちょうど卒業の年の協力隊の募集で、ネパールで自然エネルギー利用という募集があったので、これはもう私のためにあるんだと思って、青年海外協力隊に行きました。その後、戻ってきてからは、向こうに行って、自分の勉強不足が身に染みたもので、大学院に入りまして、また風力発電を勉強していました。

清原市長

皆様の青年海外協力隊を選ばれたり、あるいは留学されたきっかけは、いろいろな出会いだとか自分の気づきだとか、そういうことで紡がれてきたというふうに伺いました。でも青年海外協力隊のお話を中学時代に聞いたという時、同級生みんなが聞いているわけですよね。でも実際に青年海外協力隊に行かれたのは同級生でCさん1人ですよね。

Cさん

1人ですね。

清原市長

皆さん、お近くにいらっしゃいますか。身近に家族とか親戚とか友人とかで、青年海外協力隊に行ったという。留学の方はいらっしゃるかもしれないですけど。

Aさん

大学で同じサークルに、私より少し後に行ったのが2人います。そのうち1人は、私が帰ってきてから話をして、それもきっかけになって行っています。

清原市長

やっぱり身近に体験とか仕組みとか、それがどのような役割なのかということを知る機会があれば1つの選択肢の中に入るでしょうけれども、皆さんは身近な方から青年海外協力隊、あるいは留学の情報を得られたということがわかりました。
それでは、それぞれお国は違うんですけれども、先ほど重要な視点だなと思ったのは、海外で暮らしたことがあるから日本で暮らす外国人の皆さんについて共感性が高いというふうに皆様のお話を伺いました。
Bさんは、グアテマラって、あまり知識がないんですけれども。海外では、ご自身が外国人でいらしたわけですよね。外国人としてスペイン語はできるかもしれないけれども、2年間どんな思いで暮らされていましたか。

Bさん

その村は前にも違う隊員が入っていたので、日本人ということはわかっていたので、ただやっぱり物をねだられたりお金をくれというのがありましたし、車が、ホンダ、トヨタが走っていて、それ日本だろうと言われたり、だけど中国と日本は同じ国だと思っていたり、アジア国内での区別というのは、やっぱり遠い国なので知らなかったと思います。

清原市長

そういう意味では、裕福な国であるとか産業が進んでいるとか、そういうイメージを持っている方に、ご自身が受け入れられるって感じられた瞬間ってどんなときですか。援助する立場として入られているわけですよね。

Bさん

入りましたけど、やっぱりまだまだ指導のレベルには達しないんですよね。彼らは今日を生きるのが精いっぱいなので、鶏とか豚とか、いつ大きくなるかわからない、死んじゃうかもしれない、そうしたら明日食べるものがないという中で暮らしているので、それを育てて売るとかそういうことにはあまり興味がなかったんですよ。それは行ってから初めて知って、じゃあ興味を持ってもらうにはどうしたらいいんだろうなと思っていろいろ村人と話しているうちに2年たっちゃったというのが実際なんですけど。

清原市長

そういう意味ではDさんが行っていらしたトンガ王国なんですけれども、いわゆる発展途上国なんですか。

Dさん

そう言われてはいるんですけど、私の目からすると、お金は持ってないんですけど、でも一番の経済の特徴として、子どもたちを海外に出して、海外から送金してもらっているというのが特徴で、指標とかGNPとかGDPとかを見ると低いんですけど、見たところ物は持っているし、新しいものはどんどん買っているし、飢える人はまずいないんです。みんながみんなを助け合っていて、ほかの太平洋の国とは違ってある程度の国土があるので、主食は自給自足ができている状態で、海外からお金が入ってきていて、輸入もいっぱいしているので、私の目から見ると途上国とはいえどもまさしく楽園のような、毎日笑って暮らしてという感じだったので、ほかの帰国された隊員の話とかを聞くと、トンガはちょっと特殊かなというふうには思うんですけど。

清原市長

そのような国に2年間住んでいらしたわけですよね。そして、地球環境保全の面ではトンガでも植林をとにかくしなければ沈む危機というか、そういうものがある中で仕事をしていらして、外国人として暮らしてどんな印象ですか。

Dさん

トンガは前の国王がすごく親日家で、日本人に対して、すごく好意的なんですね。もともとの分け合いの精神も、助け合いの精神もあって、私が入ってから、最初のうちはやっぱり村の中で突然来た日本人というので、周りの人たちもなれない目で見て、日本人はお金持ちなのかという話もやっぱりあったんですけど、でもすごくみんなフレンドリーなので、行って3カ月ぐらいでまるで現地の人と同じように接してくれるし、全く知らない人でも、道端で会ってもあいさつするような感じのお国柄なので。最初のうちはトンガ語がしゃべれなくて大変な時期であるはずなんですけど、それでも周りの人が朗らかだから自分も朗らかになってしまうというか。分け隔てない部分がすごく私にとってはありがたかったです。

清原市長

Aさんは、ネパールといえば私たちは何となく山岳地域というイメージ、そういうところですけれども、2年間生活されて、外国人として暮らしていたというふうにやはり記憶されていますか。

Aさん

それが、ネパールってご存じのように観光立国ですので、私の場合は首都のカトマンズの大学に行きましたので、外国人は全然めずらしくないわけです。日本人も観光客でいっぱい見ているので、ただし、協力隊員でもほんとうに田舎のほうに行く隊員もいますので、そういう人たちの話を聞きますと、プライバシーはないと。ですので、同じネパールでも、場所によっても全然違うという感じですね。

清原市長

主としてどういう活動をしていらしたんですか。

Aさん

私は自然エネルギー利用の研究ということで、向こうの大学の研究施設にいました。言語もネパール語です。

清原市長

ネパール語というのはどういう言語なんですか。

Aさん

ヒンディーと非常に近くて、文字は同じ文字を使っていまして、あと日本人にとって言葉の順番がアジア言語で、文法が日本語と同じ言葉の順番ですので、基本的に単語さえ置き換えれば意味はわかってもらえるということになります。

清原市長

行かれる前にどのぐらいネパール語は特訓されたんですか。

Aさん

全部協力隊は同じなんですけど、2カ月半、合宿で、訓練所でやります。

清原市長

2カ月半で全く知らない言語を身につけるというのは大変ですよね。

Aさん

ただ、JICAに言わせると、中学3年間の英語の授業と同じというふうにパンフレットには書いています。

清原市長

アジアの国、あるいは発展途上と言われる国と違って、それこそいらっしゃる間に相当な発展をしたのが中国ですよね。

Eさん

その当時が、最初に日本企業だとか外資の企業が投資を始めたころですので、外国人はめずらしくはない時期ではあったんですけれども、今とは比べ物にならないぐらいの発展だと思うんですけどね。

清原市長

中国語が堪能でいらして、また外見が中国の人とそんなに違わない日本人であったとしても、その上海の1年半、あるいはシンガポールでの7年間、いずれもアジアではあるんですけれども、しかも多文化地域ですね。そこで外国人として暮らされて一番困られたことってどんなことですか。

Eさん

今考えるとあまりないんですけれども、言葉がもうできていたので、その辺で困るということがなかったんですが、残念ながら中国は外資系の企業で部下が全部現地の人なんですね。管理職として行って、上司は欧米人なんですよ。だから間に挟まれてしまって。自分の下の人たちは中国語圏の方たちで、まだサービス業とかそういったものが定着していない時期に行ったものですから、日本の常識は全く通じないし、外国の常識も通じなくて。欧米の人たちはそれを全く理解したくないし、どちらかというとちょうどサンドイッチにという。若くして中間管理職を経験して無謀だったなと。

清原市長

そうすると、シンガポールとまた全然違いますよね。

Eさん

シンガポールは英語が通じますし、生活のレベルというのがむしろ日本より豊かなのではないかと感じるぐらいなんですね。所得なんかは日本より皆さん低いんですけれども、ただ生活の質を見ますと、すごく豊かな生活を送っている国なので、むしろシンガポールのほうが暮らしやすかったです。

続きは「第33回会議録 平成19年10月25日開催(2)」をご覧ください。

このページの作成・発信部署

企画部 秘書広報課秘書係
〒181-8555 東京都三鷹市野崎一丁目1番1号
電話:0422-45-1151(内線:2011) 
ファクス:0422-48-2593

秘書広報課秘書係のページへ

ご意見・お問い合わせはこちらから

あなたが審査員!

質問:このページの情報は役に立ちましたか?

  • 回答が必要なご意見やお問い合わせはこちらからお願いします。
  • 住所・電話番号などの個人情報は記入しないでください。

集計結果を見る

ページトップに戻る