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緑と水の公園都市 三鷹市

作成・発信部署:企画部 企画経営課

公開日:2010年11月26日 最終更新日:2016年11月2日

(「三鷹・長崎平和交流事業」は平成22年度単年度実施事業です。現在は行われていません。)

「三鷹・長崎平和交流事業」について

市制施行60周年記念事業の一環として、「三鷹・長崎平和交流事業」が8月に実施されました。三鷹市からは各市立中学校を代表して7名の生徒を長崎市へ派遣し、8月8日から9日にかけて、長崎市主催の「青少年ピースフォーラム」や、長崎市立滑石中学校の平和集会に参加してきました。8月21日には、長崎市からピースメッセンジャーとして、青少年のボランティアと同中学校の生徒さんが三鷹市を訪れ、「派遣報告会・意見発表会」でお互いの意見を発表し、交流を深めました。三鷹市からの派遣中学生が発表した報告レポートを掲載します。(※原文のとおり)

連雀学園 三鷹市立第一中学校三年 久芳 理紗さん

 1945年8月9日午前11時2分。激しい爆風とともに、一瞬で長崎の街は火の海となり、約七万四千人の尊い命が奪われました。
 これから、私が実際に現地で見聞きした戦争、原爆について発表したいと思います。
 長崎に着くと、65年前に原爆が投下された街という跡形はあまりなく、 活気のあふれた明るい街という印象を受けました。しかし、この後の被爆者の方の体験講話を聞き、私は強く衝撃を受けました。このお話をぜひ、皆さんにも聞いてほしいのです。

 被爆体験をした永野悦子さんは当時16歳。今の私たちとあまり変わりません。
 その日はとても良い天気だったそうです。学校で突然警戒警報が鳴り、家に帰されました。その途中、雷の何千倍もの強い光が一瞬、その後とても強い爆風が吹き、悦子さんは鼓膜が破れないように、目が飛び出さないように、伏せたそうです。悦子さんは何とか無事で、家を探しました。他の村に行っても街の向こう側が見え、あたりはがれきの山。汽車の線路をたどっていくうちに、お父さんに会うことができ、二人は橋の上を歩きました。橋の上には真っ黒な馬が立ったまましんでいました。橋の下を見ると、河川敷に人の死体がたくさん転がっていました。そのまま橋を渡っても、見渡す限り死体だらけ。真っ黒で全身やけどを負った人々がたくさん助けを求めてきました。中には骨が見えている人もいました。みんなはこう悦子さんに言います。「水をください」そして死んでいきます。
 数日後、悦子さんは家族全員に会うことができました。3日後、弟は全身にやけどを負い、亡くなりました。妹は放射能を浴び、歯ぐきから血を出し、髪が抜けて、紫色の斑点が出ました。その後、のたうちまわりながら亡くなりました。

 皆さんは、今の話を聞いてどう思いましたか?私は、この日本でこんな悲惨なことがあったということが信じられません。戦争が、そして原爆がこんな悲惨なものとは知りませんでした。しかし、これは本当にあったことです。今でも原爆病で苦しんでいる方々がたくさんいます。そして、最後まで苦しみながら死んでいきます。
こんな恐ろしいものを、一体誰が作ったと思いますか?人間です。人間が、同じ人間を殺すために作ったものです。戦争は人間同士の殺し合いです。国の勢力の張り合いのために、同じ人間を殺しあうのです。そして今も核は作られています。歴史はまた繰り返されます。被爆者の方々が亡くなり、今の私たちが戦争の恐ろしさ、核の恐ろしさを知らないまま成長して、また再び戦争が始まったら、被爆者の方々は何を思うでしょう?未来に生きる私たちが戦争の恐ろしさを知り、そして次の世代に伝えていかなければならないのです。私は長崎に行き、本当の戦争について学びました。
それと同時に、長崎の人々の強い団結力を感じました。今の明るい長崎があるのは、長崎に住む人々みんなが平和と復興を願い、ひとつひとつ、作り上げてきたたまものです。私は深い感動を覚えました。
そして、これらのことを、身近な家族、友達からでも、伝えていきたいと思いました。そして今、この発表を聞いてくださっている方々も、この発表をきっかけに少しでも戦争の恐ろしさを知っていただけたら幸いです。
最後に、日本がこのまま、幸せに、平和な国になること、そして、世界中が核を持たない平和な世界になることを強く祈っています。

画像:連雀学園三鷹市立第一中学校三年久芳理紗さんの作品(拡大画像へのリンク)

連雀学園三鷹市立第一中学校三年 久芳理紗さんの作品

(画像クリックで拡大 51KB)

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にしみたか学園 三鷹市立第二中学校二年 三戸 栞さん

 私は教科書や本、テレビでしか戦争についてふれることがありませんでした。八月八日と八月九日の二日間、長崎へ行ったことで私は初めて戦争に深くふれることができました。長崎での体験はどれも初めてのことばかりで、その一つ一つが私にとって、とても良い体験だったのですが、特に心に残っていることをいくつか話したいと思います。
 一つ目は、被爆者の方のお話しです。今回話して下さったのは永野悦子さんという方でした。永野さんは妹と弟を亡くされているそうです。家族を亡くした人は多いので私は「やっぱりそうなんだ。」と思いながら聞いていました。話しが進んでいくと衝撃なことをうかがいました。永野さんが母との約束を守らずに妹と弟を連れて帰ってきたせいで二人は亡くなってしまったのです。それから長い間、永野さんとその母との間には大きな亀裂がありました。この話から原爆は人の体を侵すだけでなく、人と人との関わりまで壊していくのだということが分かりました。たった一つの関係が壊れただけ、と思う人もいるでしょう。でも本人達にとって流れてゆく時間をずっとつらい思いで過ごしていたのです。たった一人の悲しみでも、それを無くしていくのが平和への第一歩なのではないでしょうか。
 二つ目は滑石中学校の平和活動についてです。平和集会では各学年で発表をしたり、滑石平和さるくというマップを制作、案内をしたりしていました。これから社会をになっていいく子供達が中心となって平和や戦争について、そっせんして取り組むのはいいことだと思ったし、自分達も見習っていきたいと思いました。
 私はこの貴重な二日間で戦争や平和への努力を肌で感じ、いろいろな都道府県の人と交流することができました。三鷹やその周りの市にも戦争のあとなどがせっかくあるのに、戦争について深く考える授業などは無いのでそういう授業が少しでもあれば、もっと多くの子供にいろんなことを知ってもらえると思います。戦争や平和について深く考える人が多ければ多いほど平和に近付くのではないでしょうか。ですから、ほとんどの人が、かよっている小中学校で教えてもらえればいいのではないかと思います。個人的にできることは、やっぱり友達、家族に教えたり、図書館やインターネットで定期的に調べたりすることだと思います。最近は平和すぎています。それが悪いというわけではないのですが戦争は実際にあって大勢の人が犠牲になりました。それを絶対に忘れず、これからも伝えていくことが私達がやっていかなければいけないことです。

三鷹の森学園 三鷹市立第三中学校二年 津田 陽香さん

 私が今回、「三鷹・長崎平和交流事業」で思ったこと、考えさせられたことが沢山あります。私は、この2日間に参加するまで、広島・長崎の原爆の事をあまりしりませんでした。しかし、この2日間で沢山学んだ事があります。
 長崎に投下された原子爆弾は、「爆風・熱線・放射線」の3つのエネルギーで構成されています。この3つの被害を受けており、今でもその被害によって苦しまれている方が多くいます。放射線は、爆弾の中でも原子爆弾だけが発するエネルギーであり、目には見えず感じる事もできません。少量だったら影響はありませんが、大量に浴びてしまうと髪の毛が抜けてしまうなどの症状が出てきて、命を落としてしまうこともあります。
 次に、開会行事で被爆者・永野悦子さんの話を聞きました。永野さんは、当時16才で爆心地から2.8km離れた所で被爆されました。被爆前まで、飛行機の部品をつくっており、警戒から警報に切り替わり、外へ飛び出したそうです。11時02分、窓がピカッと光り、とっさに目が飛び出さないように、鼓膜が破れないように押さえたそうです。浦上の町は崩壊し、ずっと遠くの風景まで見え、長崎の町は火の海になり死体がゴロゴロと転がっていたそうです。ほとんどの人は、皮膚が垂れ、全身に大ヤケドを負いながら息が絶えるまで「水をください・・・助けてください・・・。」と助けを求めましたが、永野さんは水を持ってなく、どうしてやる事もできなく、目の前で亡くなった人が何十人もいたそうです。弟さんは、全身にヤケドを負い、3日後に亡くなり、お母さんと妹さんは原爆症に苦しみ、妹さんは1か月後に亡くなりました。この被爆体験の話を聞いて、その瞬間を想像するだけで原爆の悲惨さがよくわかりました。自分の目の前で人が続々と亡くなっていく・・・。しかも、その人達に何もしてあげられなかった事・・・。とても、辛く悲しかったと思います。もし自分がこの場に居て、家族を失い、何もかもなくなったら、「生きよう!」と考える事が私はできません。皆の分も生きなければと思う強い心はすごいと思いました。
 次に、被爆建造物等を見に行きました。実際に被爆当時にあった建造物を自分の目で見て、原爆の威力がとても強い事が分かりました。私が一番印象に残った建造物は、浦上天主堂遺壁です。浦上天主堂遺壁は、爆心地から500mの場所で被爆した浦上天主堂の一部です。この遺壁は、キリスト教の弾圧から逃れた信者の人々が、30年間かけて造られましたが、20年後原爆でほとんどが壊れました。その一部には、爆風により1cmぐらいずれた石、熱線の跡が今でも痛々しい傷として残っています。この2つを触れて見て、現在でも被爆当時と同じ状態で残っている事がびっくりしました。
 2日目は、滑石中学校の平和集会に参加し、11時02分に黙祷、平和宣言などを行いました。中学校の生徒は、被爆地長崎で生まれ育ってこそ、原爆の恐ろしさを知っていて、平和に対する思いがとても強いと思いました。
 次に、班で分かれ平和な事・平和ではない事を出し合い、平和ではない事から工夫すれば、平和になる事を出し、班員の皆で話し合いました。私の班では「いじめ問題について」でした。いじめは一人を大人数で差別する、あってはならない事です。一人一人違う物を持っていて、せめたりすれば平和には絶対になりません。私は、一人一人の個性を尊重しあい、認め合うことで平和につながると思います。
 私は、この2日間で平和の尊さ・人の大切さを知りました。人を思いやり、優しく接する事で平和な世界を実現させるのではないでしょうか。人同士の差別がなくならない限り、平和な世界は築けないと思います。長崎は、皆で助け合い、努力を重ねて現在の平和で過ごしやすい都市になったと思います。この事を忘れる事なく、私たちの世代や次の世代に伝え、唯一の被爆国である日本が、平和と核廃絶を世界に発信し続ければ、戦争のない平和な世界が築けると信じたいです。

三鷹中央学園 三鷹市立第四中学校二年 浅野 華央莉さん

「平和=幸せ」
 私が当たり前だと思っていた日常。日々楽しく笑顔で過ごせる日常。もちろん時には嫌なこともあるけれど周りの友達や家族にささえられて過ごしています。こういう私にとっての日々の日常も「平和」だからなんだと、長崎へ行き、平和について学んだから、気づくことができました。
 長崎平和交流事業一日目。私は被爆者である永野悦子さんのお話を伺い、戦争の恐ろしさ、原子爆弾の恐ろしさを学びました。私が特に驚いたことは、65年経った今でも原子爆弾によって苦しんでいる方々がいらっしゃるということです。永野さんからのお話を伺った後、被爆建造物等のフィールドワークをしました。建物は、爆風によってずれているところがありました。また、被爆当時の地層、爆心地から500メートルの場所で被爆した浦上天主堂遺壁等、65年前の長崎の悲惨さを物語っていました。
 長崎平和交流事業二日目。長崎県長崎市立滑石中学校を訪問しました。滑石中学校での平和宣言で印象深かったところがあります。「65年前の犠牲と人々の努力によって現在の平和があることを忘れないこと」「あなたは今の平和をあたりまえだと思っていませんか」今まで生活していて、あまり考えたこともないことだったのでとても衝撃を受けました。長崎のとてもきれいな青空が私に問いかけてきているようでした。
 あっという間の2日間でしたが、私は長崎平和交流事業に行けて本当に良かったと思っています。「平和」ということがどれだけ大切なのか。「平和」ということがどれだけ幸せなのか、ということを私は学びました。そして、今、「平和を続ける」ためにできることは何かを考えました。それは、永野さんから伺ったお話から、原子爆弾がもたらした被害や悲惨さ、そして平和の尊さを家族や友達など身近にいる人に伝えて、少しでも多くの人たちに知ってもらう努力をし始めたいと考えています。65年経った今も被爆者の方々が苦しんでいらっしゃるという現実を忘れないように伝えていきたいと思います。最後にこのように私に考える機会を頂いたことに感謝します。

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